俳句嫌い
2007年8月10日私のような凡人にとって、俳句ほど理解できない文学はない。特に、俳句における季語ってのが理解を超えている。俳句は季語というキーワードを通して、その季節のイメージに対して「あるある!」という同感・共感の類を時空を超えて得るものであるわけだが、その季語の中にはヘンテコなものが実に多いのだ。季語は有名・偉い俳人が決めていたらしい。昔、高岡虚子という偉い俳人が季語を集めていたのは有名は話だ。現在は「歳事記」という本の編集部が、偉い俳人にチェックしてもらって季語を決めているらしい。
例えば、ヘンテコな季語としては、夏の季語で「食中毒」ってのがある。確かに夏の今どきは食中毒には要注意ではあるが、「食中毒」を俳句で詠んでどうするんだぁ? 「食中毒」でゲーゲーやったことを夏の出来事として「あるある!」と思わせるってのは、すっごい悪趣味じゃないか。
夏の季語に「ウジ」ってのもある。これも悪趣味だ。なんで「ウジ」を題材に俳句を詠まなきゃならんのだぁ? 「ウジ」の不快感を俳句で「あるある!」と思わせるのって、サディスティックだよなぁ。
同様に、夏の季語に「ゴキブリ」がある。ゴキブリは一年中出るじゃないか。夏だけにしか出現しない季節限定ものじゃないだろ。なんで夏の季語なんだぁ? (今では暖房などが完備されていて、冬でもゴキブリが出るようになったけれど、昔は夏にしか発生しなかったってことなのかなぁ? 今と昔では生活環境・生活様式が変わって、季節感も変わってきているって事かねぇ?)
その他にも、オール・シーズンものなのに、なぜかどこかの季節に特化されちゃっているヘンテコな季語は多い。「遠足」は一年中、いつにでも行けるものなのに、春の季語である。ここ札幌では冬にも遠足があって、スキーを持って雪山に遠足に行くんだぞ。「焼酎」だって、一年中、いつでも飲めるものなのに、夏の季語だ。「シャボン玉」も季節に関係なくいつでも吹けるにもかかわらず、なぜか春の季語だ。こ〜いう季語を決めた人の頭の中を疑ってしまう。
ヘンテコな季語には「青写真」ってのがある。これも季節に関係のないものだが、冬の季語になっちゃっている。ナゼなのかさっぱりわからない。「青写真」で詠まれた有名な俳句にこんなのがあるのだ。
青写真 待ち猫もまた 覗きをり
冬の乏しい日光をあてて、縁側で子供たちが青写真を焼いている。その横で猫が・・・ってな情景を詠んでいるんだろうけど、それって、「青写真」じゃなくて「日光写真」じゃないかぁ? 「青写真」と「日光写真」って、その原理も用途も全く別の物なんだが、作者は「青写真」と「日光写真」の区別をするだけの知識がなかったのだろうか? 「日光写真」と取り違えて「青写真」を季語に認定しちゃっているとは、とてつもなくおバカであり、非科学的だ。
非科学的な季語としては、「亀鳴く」なんてものもある。亀には声帯がないので鳴きませんってば。ちなみに、「亀鳴く」は春の季語らしい。前述の高岡虚子という偉い俳人が「亀鳴く」で詠んだこんな俳句がある。
亀鳴くや 皆愚かなる 村の者
なんなんだぁ、この俳句? 「亀鳴くや」だけでも非科学的なバカであるのに、それに続く、まるで部落差別のような言い切り。作者は「村の者」からのイジメにでもあって、ハライセにこんな俳句を詠んだのかねぇ?
ちなみに、俳句の世界では、鳴くのは「亀」だけではない。「ミノムシ」も「ミミズ」も鳴くことになっている。非科学的ったらありゃしないな。そ〜いうタワケな俳句の世界は、我々の理解を遥かに超えている。俳句の世界、恐るべし!
ここ北海道には「ゴキブリ」ってのがいないので、私は詳しいことを知らないのだが、「ゴキブリ」ってのは実際に鳴くらしい。その鳴き声をマネして、「うまい!」と皆から絶賛されている友人がいるのだけれど、私にはうまいのかどうなのか判断できないな。
ちなみに、冬の季語の中に、「山下達郎」ってのが実際にあるのだ。この調子で、そのうちに「チューブ」とか「サザン」ってのが夏の季語になっちゃうのかなぁ?
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