映画嫌い (283)

2008年6月19日
 
本日のクソ映画は2008年の邦画「クライマーズ・ハイ」だ。横山秀夫の同名小説の映画化である。1985年、御巣鷹山の日航機墜落事故の時に、地元紙の記者として取材に奔走した実体験が書き上げられたのがその小説だった。それを映画化しっちゃったらこんなのになっちゃったわけだ。以前にNHKでドラマ化されて放送されたそうであるが、これはそれとは別ものである。この映画は7月5日から劇場公開されるようだ。今後、この映画を見る予定の人は以下を読まないように。

1985年8月12日の夕刻、群馬県の御巣鷹山に日本航空123便、ジャンボ機が墜落した。死者520人の大惨事だ。主人公は前橋市の北関東新聞社の記者の悠木だ。悠木は社長の指示により、墜落事故の報道の責任者となる。そして・・・。
 
 
こりゃないだろ。2時間25分くらいもある長い映画なんだけれど、もぅ、多くを詰め込み過ぎなのだ。詰め込んじゃっているから、ひとつひとつが中途半端になっちゃって、全体的にも散漫になっている。そ〜いう初歩的なミスをやっちゃっている悲惨なクソ映画がコレなのだ。前述のクソ映画「伝染歌」を監督していた原田眞人がこの映画の監督だもの、こ〜なっちゃうのは想像がつくよな。こんなシロートな奴に監督なんかやらせるなよ。大惨事、非常事態というシリアスさが表現されていないし、新聞社内の軋轢とか、地方紙と全国紙との取材競争のようなものを見せているんだけど、どれもが映画の内容としては空振りなのである。表現、描写に緻密さがなく、中途半端で、めちゃくちゃ大雑把なのだ。随分とザツに作られちゃっているよなぁ。記者たちの心理ドラマとしても深みが全くないぞ。22年後(現在)の悠木の姿も並行して描かれているんだけど、そんなの邪魔以外の何ものでもない。ったくもぉ、しょ〜もない映画だなぁ。こんな映画になっちゃって、原作者もめちゃくちゃ困惑しているんじゃないかな? いや、原田眞人を監督にして映画化する事を認めちゃったんだから、原作者の自業自得か。
墜落していく飛行機の中で犠牲者たちが書き遺した家族へのメモ書き。それが悲しく心に沈む、それだけになっちゃっている映画なのが情けない。
ってことで、あの事故は悲惨だったけれど、こんな映画は無視しようぜ。
 
 
邦画「クライマーズ・ハイ」
http://climbershigh.gyao.jp/
 
 

 
あの墜落事故は私も忘れられないなぁ。悲惨な事故だったねぇ。
墜落事故の数日後、テレビのニュース番組を見ていたら、遺体が次々に運び込まれてきている安置所の前から生放送の中継が行なわれていたんだけど、その時、マイクを握って現状をレポートしている記者の横に小学生と思われるガキどもがいっぱい集まってきて、テレビカメラに向かってふざけあって、Vサインとか出していたんだよなぁ。いくら子供といっても、そんな事は許されるわけがないだろ。あのガキども、今でも生きていたら30才を超えていることだろうが、ろくなオトナになっていないに違いない。
  
私の叔父が危うくあの日航機123便に乗ることになりそうだったのだ。2週間前にその便に予約を入れていた。当日の夕刻にリムジンバスに乗って空港に向かったところ、予定より早く空港に着いちゃった。急ぐ必要のある移動じゃなかったから、空港で缶ビールでも飲んで時間をつぶそうと思ったそうなんだけど、売店に行ってみると、自分の好きな銘柄の缶ビールが品切れになっていた。仕方ないから、ビールはあきらめて、向こうの空港に着いたら飲もうと決めて、空港の日航のカウンターに行って、それより1つ前の121便に空席があったから予約変更してもらったと言う。それで123便に乗らずに助かったのだ。叔父はその時に自分の一生の「運」を使い果たしたと思い、それ以降、競馬もパチンコもしなくなったんだよなぁ。
そんな話をビールを飲みながら私にしていた叔父も、3年前に亡くなっている。
 
私も仕事で東京に行ったり、海外に行ったりと、飛行機に乗る機会がかなり多い。早く空港に着いて、早い便に予約変更するたびに、あの叔父の事を思い出す。叔父の場合は予約変更をして助かったのだが、逆に予約変更したばっかりに墜落する運命にある飛行機に乗っちゃうというパターンだってありえるだろう。予約変更して乗り込んだ飛行機が墜落していく最中に、「しまったぁ〜!」と後悔しても遅いのが恐いな。空港という場所には人生の岐路がいろいろとあるんだなぁ。
 
以前にここに詳細を書いたけれど、9年前に羽田空港から千歳空港へ向かう飛行機に乗ろうとして、早めに羽田空港に着いちゃったから、事前に予約していた便より2つ前の便に変更してもらって乗り込んだところ、その便がハイジャックされちゃったという経験が私にはあるのだ。犯人がフライト・シミュレーターのマニアで、機長を殺して、自分で操縦桿を握ってレインボーブリッジの下をくぐろうとして、副操縦士が犯人を取り押さえるのがあと10秒遅かったら墜落していた・・・というあの事件である。操縦桿を犯人の手に渡すまいと命がけで守った機長の行動・勇気には敬服する。その機長が殺されてしまったことは、とっても残念な事だ。機長、そして副操縦士のおかげで、墜落しなかったのは不幸中の幸いだった。機長のご冥福を祈る。
あのハイジャック事件があったのは1999年7月23日だ。私は「1999年の7の月」事件と呼んでいる。
 

 
 

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