映画嫌い (309)

2008年9月15日 映画
 
本日のクソ映画は2007年の米国映画「コレラの時代の愛 (Love in the Time of Cholera)」である。日本では先月に一部の映画館でのみ公開されていたようであるが、ほとんど話題にならなかったな。
南米・コロンビアの文豪、ガルシア・マルケスの1985年の同名のベストセラー小説を無理矢理と映画化したものがコレだ。1982年に彼がノーベル文学賞を受賞し、その後の最初の作品ってことで注目を浴びていた小説だったから、当時に米国で出版された英語版の本で私もコレを読んだことがある。映画は原作をなぞった作りになっているけれど、かなり雰囲気が違った印象のものになっちゃっているなぁ。
 
1879年、南米・コロンビアの港町・カルタヘナ。主人公のフロレンティーノ・アリザは電報局に勤務する24才の男だ。
http://okurahoma777.hp.infoseek.co.jp/Cholera1.jpg
フロレンティーノは電報の配達先に住んでいる20才の令嬢・フェルミナ・ダサに恋をした。
http://okurahoma777.hp.infoseek.co.jp/Cholera2.jpg
詩的な文章表現が得意なフロレンティーノはフェルミナにラブレターを書く。フェルミナは彼の気持ちを受け止める気になったが、フェルミナの父はその仲を認めなかったのだ。父は娘を裕福な名士に嫁がせたいと考えていたからだ。フロレンティーノから引き離す為に、父はフェルミナを連れて長い旅に出る。フェルミナの居場所をつきとめたフロレンティーノは彼女の元へ電報でラブレターを送るのだった。とことが、フェルミナが町へ戻ってきた頃には、フェルミナのフロレンティーノに対する恋心はすっかり冷めていた。再会したフェルミナに「あれは幻想だったの」と言われたフロレンティーノは激しく落ち込む。その後、フェルミナは医師のウルビーノと結婚し、フロレンティーノは更に落ち込んでしまう。悲しみにくれたフロレンティーノは、いつまでも彼女を待ち続けると心に誓うのだった。
その後、フロレンティーノは行きずりの女性たちと次々とファックするが、フェルミナの事を忘れることができず、いつも満足することはなかった。ファックした相手のことを手帳に記録しながらもフェルミナの事を思い出す日々だ。彼は気分転換で叔父の経営している船会社に転職したが、それでもフェルミナへの気持ちは深くなるばかりだった。
そして、時は流れた。彼は叔父の後を継いでその船会社の社長になっていた。独身のままの彼が手帳に記録したファック相手の女性の数は600人を超えていた。
一方、フェルミナは子供を産み、ダンナの浮気があって夫婦仲が危機になる事もあったが、それを乗り越えて、さらに時は流れる。フェルミナは孫もできる年齢になっていた。ある時、老いたダンナが庭で脚立から転倒し、それでダンナは死んでしまう。ダンナの葬儀の後、悲しむフェルミナの元にフロレンティーノがやってきた。フロレンティーノは76才、フェルミナは72才になっていた。
フロレンティーノは言う。
「51年9ヵ月と4日、愛の告白を果たすこの日を待ちつづけていた。」
と。フェルミナは「こんな時に!」と激怒してフロレンティーノを罵倒して追い返すが、その後、次第にふたりは打ち解けていく。
http://okurahoma777.hp.infoseek.co.jp/Cholera3.jpg
そして、ふたりは南米の大河を航行する船で旅に出た。客室の中で、老いたふたりはファックする。
おしまい。
 
 
いったいコレのどこが「コレラの時代」のなんだよ? ってな具合の映画になっちゃっている。コレラ患者が出てくるシーンはあるものの、ストーリーにも背景にもコレラなんか全く関係ないじゃないか!な映画なのである。原作本ではコレラが蔓延している危機感、それと内戦状態で混乱する社会への不安感というものがベースにあったけれど、この映画ではそのような時代背景が表現できていないのだ。コレラ感染の恐怖感がぜんぜんないぞ。内戦シーンがちょっとだけあるけれど、ぜんぜん内戦状態の緊迫感もない。こりゃ、原作本の内容をかなり薄めてしまったという感じが否めないな。長編文学を2時間20分の映画にするのだから、その観点からは、ある程度の原作からのカットは仕方のない事だろうが、この映画はタイトルになっている「コレラの時代」という背景をカットしちゃったわけだ。完全に軸がブレちゃってやんの。それに、この映画は原作本のあらすじのダイジェスト版にしかなっていないのが酷い。映画でダイジェストやってどうするんだ? 原作を軽くトレースしてエピソードを羅列しただけで映画が成立しちゃうと思っているのかねぇ?

で、この映画の最も醜悪な点は、フロレンティーノの心理もフェルミナの心理も見えてこないってことだろう。なぜにフェルミナがフロレンティーノに一度は惚れてしまうのか、その心理が全然見えてこないし、なぜにフロレンティーノのことが嫌いになったのかも見えてこない。老いたフェルミナがなぜにフロレンティーノのことを受け入れて、その上にファックする気持ちにまでなったのか、その心理も全然見えてこないのである。フェルミナのことを思いながらも、なぜにフロレンティーノが様々な女性と病的なまでにファックしまくるのか、その心理も見えてこない。心理を見せずしてファック・シーンを見せるならば、それはラブ・ストーリーじゃなくてポルノ映画だろ。老人ファックまで見せる醜悪な老人ポルノ映画、恐るべし!
それにしても、コロンビア人たちがなんで全員、英語で会話しているんだろうねぇ?
 
私は原作本も全く評価していない。長いだけでつかみ所のない陳腐なラブストーリーとしか思えなかったもの。コレラと内戦の不安な時代、富裕層と貧困層の格差、南米を流れる大河とジャングルなどの印象が強くて、その他にはたいしたストーリーもないから、かなりスカスカな小説に思えた。作家・マルケスはこの小説でどんな愛を描きたかったのか、何を言いたかったのかさっぱり読み取ることができなかったなぁ。フェルミナが父に連れられて旅に出た部分の、その旅の狂気じみた行程の印象くらいしか残らなかったぞ。山岳地帯、高地の村々をキャラバン隊のように馬で越えて、ときには歩き、民家で眠り、旅は一年半あまりに及んだという、かなりサド的で強行な旅なんだけれど、映画の中ではそれの描写がほとんどないもの痛いなぁ。
 
 
映画「コレラの時代の愛」
http://kore-ai.gyao.jp/
http://www.imdb.com/title/tt0484740/
 
 

 
ちなみに、ノーベル文学賞がマルケスへ授与された事に対する批判はかなり多い。彼の代表作は1967年の「百年の孤独」ってことになっているけれど、この小説も支離滅裂でつかみどころのない内容なのだ。ノーベル文学賞に値するような作家だとは認められていないのが現実である。ノーベル平和賞を韓国の金大中に授与したのと並び、ノーベル賞の2大ミスと言われている。
 
ノーベル賞のミスと言えば、アインシュタインに「相対性理論」でノーベル賞を授与しなかった事も大きなミスだろう。アインシュタインは1922年にノーベル物理学賞を授与しているが、それは「相対性理論」の功績に対してではなく、「光電効果」に対してのものだった。それとは別に、もう一度、アインシュタインに「相対性理論」でノーベル物理学賞を授与すべきだったろう。
ちなみに、アインシュタインはノーベル賞の賞金を慰謝料として全額を前妻へ与えている。イトコとの再婚、恐るべし!
 




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