映画嫌い (342)
2008年11月17日 映画本日のクソ映画は2008年の米国映画「かけひきは、恋のはじまり (Leatherheads)」である。現在、日本でも劇場公開中のようだ。主演がジョージ・クルーニーで、彼自身が監督もしている。
1925年(昭和元年)、米国ミネソタ州のイナカ町ダルース。主人公のドッヂ・コネリーはアメフトのプロ・リーグのチーム「ダルース・ブルドッグス」の中年選手だ。誕生間もないアメフトのプロ・リーグの人気は低迷し、ドッヂの所属するチームからはスポンサーが降りてしまい、チームは活動停止してしまうのだった。そこでドッヂはチームの再起させる為に、カーター・ラザフォードをスカウトしようとする。カーターは人気の高いアメフト大学リーグでのスター選手であり、第一次世界大戦で大活躍をして名誉勲章を与えられた国民的英雄でもあった。
一方、新聞社「シカゴ・トリビューン」の敏腕女性記者のレクシー・ミドルトンは編集長からの指示でカーターを密着取材していた。カーターの戦争時の英雄話にはデッチアゲの疑惑があり、それを暴く事が彼女の目的だ。
そのレクシーにドッヂもカーターも心惹かれてしまい、事態がもつれていく・・・。
ラブ・コメ・スポーツ映画なんだが、コメディとしても、スポーツものとしても大して面白くないし、ラブ・ストーリー、サクセス・ストーリーとしても中途半端だ。どの角度から見ても浅くて、かなり完成度が低いんだもの。
ドッヂとレクシーの会話による「かけひき」をメインに見せたかったのだろうが、それもいただけない。相手を罵倒するイヤミな会話でお互いの性格のイヤな部分を見せられても、見ている側としてはイヤな気分にしかならないもの。あんなイヤミを言う性格のレクシーは、私なんかは人間として論外に見えてしまうから、そんな彼女に惚れるドッヂがアブノーマルな奴に見えてくるんだよなぁ。カーターのほうの人間性の描写が不足している気もするし、チームのほかのメンバーたちの各々の個性をもっと描写すべきだったろうねぇ。あの新入りのメタボ系高校生選手しか印象に残らなかったのは私だけであるまい。
で、この映画を見る限り、結局は、ジョージ・クルーニーは監督としては失敗しちゃったとしか思えない。役者が監督やプロデューサ業に進出してくるパターンは過去にも多くの例があったわけで、役者が監督やプロデューサをやりたくなる気持ちは理解できるのだが、それらの映画は、ことごとく粉砕しており、成功例はほとんどない。それらにはある共通項が見られるのだ。俳優として人気が出たために、監督やプロデューサとしての仕事を始めるとなると、ネーム・バリューでそこそこの資金をスポンサーから集められるし、ファンからの注目もあって、そこそこの集客もできる。しかし、監督の仕事に関しては、しょせんはシロウトに毛がはえたようなアマチュア・レベルで、自分が過去に出演した映画の監督のスタイルの踏襲、あるいはかつての監督に対する反面教師的な批判になっちゃうわけだ。スタッフには自分の意見に賛同するイエスマンしか配置しなくなり、客観的に自分の作品を見て批判できる人がまわりにいなくなっちゃって、結果として、自身の嗜好の色が極度に強調されちゃった自己満足的な作品になる。そんな映画を第三者が見ても、何なんだこれ?ってことにしかならないのだ。今回のこの映画は、まさにそのパターンだろう。そのような監督業への罠にハマらない為に、現役の俳優さんたちはこの映画を教訓とすべきだろうね。
映画「かけひきは、恋のはじまり」
http://www.kakekoi.com/
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