そっくりさん嫌い (81)
2006年12月14日
英国・米国以外にもロックはあった。オランダにもあった。ってことで、オランダを代表するロック・バンド、フォーカス(Focus)とアース&ファイア(Earth and Fire)については前述の通りである。
同様に、イタリアにも、フランスにもロックはある。ブラジルにもアルゼンチンにもチリにもウルグァイにもある。日本にも韓国にもある。じゃ、東欧の共産圏(当時)の国々ではどうだったのか?・・・というのが本日の話題である。
1960年代から、1980年代末の共産主義体制崩壊に至るまで、東欧の共産圏の国々では原則としてロックは禁止されていた。聴くことも、演奏することも禁止だったのだ。国によって若干の認識が違っていたが、その禁止政策の基本は東欧では共通していた。ロックは「西側自由主義体制の退廃の象徴」とされていたのだ。反社会的な歌詞や悪魔崇拝の歌詞、暴力的な音、それに煽られて熱狂する群集の暴動まがいのオルグなどが、共産主義の体制・思想に反するもの、治安を乱すものだったからだ。ビートルズ(The Beatles)もローリング・ストーンズ(Rolling Stones)もそのほかのバンドの音が入ってくるのも国家権力が禁止していたし、ロック・バンドの結成や演奏の自由もなかった。
当時のソ連においてはほぼ全面的にロック禁止だった。ダーウィンの進化論が共産主義の思想に反するとして排除されていた(ラマルクの進化論に思想統一されていた)のと同様である。英国や北欧の放送局のラジオ番組でロックを隠れて聴いている国民も多くいた為に、ソ連では強力な妨害電波を発信して聴けなくしてた事もあった。ロックを聴くとKGBに連行されてシベリアの強制収容所に送られるにされる場合もあったらしい。ロックを聴くのは命がけのことだったのである。
東欧の共産圏の他の国、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニアなどでも基本的にはソ連と同様だった。音楽においても「鉄のカーテン」でヨーロッパは東西分断されていたのだった。
一方では、ソ連やポーランドの船員が国外から密かに持ち込んだロックのレコードが闇市で売られたりして、実は裏では多くの人々がロックを楽しんでいたという。1970年代の当時、東欧で人気の高いバンドは、キング・クリムソン(King Crimson)、ジェスロ・タル(Jethro Tull)、ユーライア・ヒープ(Uriah Heep)、そしてビートルズだったらしい。ロックのマニアは医療用レントゲン写真のフィルムに溝を彫ったソノシートを自主制作し、密かにソノシート観賞会を開催していた。当局が踏み込んで来ても、レントゲン写真だと言い逃れる作戦だ。
ロック禁止の体制下で、ただひとつ、表向きの抜け道があった。それは、「ダンス音楽としての軽音楽」は認められていたって事だ。だから、国内でダンス音楽の名目でのレコードは出ていたし、ダンス音楽のコンサートもあった。そんなコンサートには秘密警察のエージェントが来ていて、厳しい監視をしているのである。ちょっとでもロックっぽいフレーズを演奏すると逮捕なのだ。
最もロック禁止に厳しかったのはチェコ・スロバキアだ。1970年代に秘密裏に活動していたロック・バンド、プラスチック・ピープル(The Plastic People of the Universe)のテープが英国に渡り、その後にそれがレコードとなって発売されるに至るが、そのバンドのメンバーは逮捕され、投獄されてしまった。
ポーランドでは比較的、規制は甘かった。キーボードを弾きながら歌うニーメン(Niemen)はポーランドにおける国民的歌手で、ポーランドの音楽界のゴッドファーザーである。日本でいえば北島三郎だ。彼の音楽はポーランドの土俗の音楽をベースにその音楽性を拡張していったパターンだった。西側のプログレ・バンドが使っていた電気楽器を彼は導入し、シンセサイザーやメロトロンを弾きながら歌うに至る。それがかなりロックに近い。ニーメンのバック・バンドから独立してデビューしたSBBというバンドは完全にプログレッシヴ・ロックであり、その音楽性の高さには世界のプログレ・マニアが驚愕した。
ポーランドのニーメンの曲はこれを見よう。
http://www.youtube.com/watch?v=H1bdMhrvh20
これがポーランド人の心にしみる歌なのだ。曲名は「Dziwny jest ten swiat」。最初の単語は何って発音するのだろうか?
その後、ゴルバチョフ政権となったソ連では、ペレストロイカ、グラスノスチの解放・改革の政策によって、ロックが解禁となり、それまでアンダーグラウンドで活動していたバンドが一気に表で活動し始める。マシーナ・ブレメニ、スタス・ナミン、アルセナル、ゾディアック、ゴーリキ・パーク、・・・など、多くのバンドが表に出現する。また、西側のミュージシャンの多くがモスクワでライブを行なうようになるのだった。そして、ベルリンの壁の崩壊を経て冷戦が終結。東側諸国が共産主義を捨てると同時に、ロックも解禁されるのだった。
ロック禁止時代の東欧の国々の中で、最も規制が甘かったのはハンガリーだった。数々のロック・バンドが出ている。共産主義体制においては、労働者は全員が国家公務員であるから、プロのロック・ミュージシャンも国家公務員に該当する。だから、国家による統制下で活動しなければならなく、それなりの規制があるものだ。ところが、ハンガリー政府はロックを国営産業化し、国内での貴重な収入源とし、更には海外進出させて外貨獲得の手段とするようになる。
1970年代から活動しているオメガ(Omega)というバンドはハンガリーの国民的なバンドである。ハンガリーのダントツのナンバー・ワンのロック・バンドで、プログレ・ハードな曲っていうか、歌謡曲ロックとでも言いたくなる曲をやっている。ハンガリーではオメガのレコードが売れまくり、国内ツアーも常に満員御礼、まさにハンガリーの国家が運営するロック産業だった。西ドイツでライブを行なうなどして、西側に進出していた数少ない共産圏バンドのひとつである。オメガは今でも現役で活動している。
ハンガリーではその他には、ハード・ロックのスコルピオ(Skorpio)、ロコモーティヴGT(Locomotiv GT)、プログレのイースト(East)なども出ている。日本では1980年の「ドン・キホーテ」の一発屋として知られるニュートン・ファミリー(Neoton Familia)もハンガリーのバンドである。
で、今回のそっくりさんは、ハンガリーのオメガである。
前述のように、共産圏ではロックに関する情報も少ないし、機材の面でもハンディがあるから、レベル的に低いバンドが多すぎるのが現実だ。ほとんどが論外な三流バンドである。西欧ロックの低レベルなモノマネの域を出ていないものが多い。しかし、中には例外もあり、堂々と西側でも通用するバンドがいくつかある。東ドイツのシュテルン・コンボ・マイセン、ロシアのエデュアルド・アルテミエフ、そして、前述のポーランドのSBB、ハンガリーのイーストだ。彼らの音楽性は充分に高い。
ハンガリーのオメガもなかなかのものである。ただ、このバンドの曲には個性があまりないのだ。どこかで聴いたことのあるフレーズが堂々と登場している。それは西側のロックのパクリなのだ。日本の歌謡曲が米国のヒット曲をパクっているような感覚である。韓国では日本のヒット曲の数々をパクってるしなぁ。
私が初めてオメガの曲を聴いたのは高校生の頃で、モロにキング・クリムゾンやユーライア・ヒープのパクリのような曲があるので驚いた。キング・クリムゾンとかユーライア・ヒープって共産圏で人気があるから、このように影響を与えているんだなぁ・・・と私はすっごく興味を持っちゃったのだった。それがキッカケとなり、それ以降、私は共産圏のレコードを収集するようになった。結果的には9割以上がクズだったけど。
では、オメガの代表曲のこれを聴いてみよう。ハンガリー語のタイトルは忘れてしまった。英語のタイトルは「Help To Find Me」である。
http://www.youtube.com/watch?v=C1fnYNnjY4s
この曲のノリ、ある曲にそっくりである。
その曲とは、これだ。
http://www.youtube.com/watch?v=hbebNYF7uIk
ユーライア・ヒープのヒット曲「安息の日々 (Easy Livin’)」だ。画質が悪いな。
ハンガリーのオメガ、恐るべし!
オメガ
http://www.omega.hu/
ソ連のロックの状況については「ゴルバチョフはロックがお好き?」という本がとても参考になるのでおすすめ。本屋では見かけないので、もう絶版になっているのだろう。札幌の中央図書館に置いてあるのを私は読んだ。
「ゴルバチョフはロックがお好き?」(アルテーミー・トロイツキー 著、菅野彰子 訳)
http://www.excite.co.jp/book/product/ASIN_4794950802/
ロシアおよび旧ソ連の各国のレコード、CDは、日本では東京の神田の古書センターの4階にある「新世界レコード」という店が輸入しており、その店舗で代表的なものを買うことができる。私もこの店には時々行く。エデュアルド・アルテミエフの作品を見かけたら絶対に買いである。
新世界レコード
http://www.shinsekai-trading.com/
日本でも電波が良く入ってくる短波放送の「モスクワ放送」というラジオ局がある。その放送局の名の通り、モスクワから放送しているのである。その局がかつて、ソ連(当時)の最新のヒット・チャートを放送していたことがあって、それを毎週、私は興味深く聴いていた。マシーナ・ブレメニっていうバンドがやたらとヒットを出していたのをよく覚えている。その番組名が、「ベスト・ヒット・USA」ならぬ「ベスト・ヒット・USSR」だった。
マシーナ・ブレメニは一度だけ来日したことがあって、第2回目の「ジャパン・エイド」にロシア代表として出演していた。その模様はテレビでも放送されていた。面白いバンドなんだけど、つまらない曲しか演奏しなかったのが残念だった。マシーナ・ブレメニとは、ロシア語でタイム・マシーンの意味で、あの時はバンド名が「タイム・マシーン」と紹介されていた。ダサぃ名前だ。
ちなみに第1回目の「ジャパン・エイド」にロシア代表として出演していたのがスタス・ナミンだった。このバンドは全然面白くない。
ユーライア・ヒープはまぁまぁ好きなバンドだったなぁ。ゲイリー・セインってベース奏者の弾く個性的なフレーズが素晴らしかった。それがあのバンドの魅力だったんだけれど、死んぢゃった。
デビッド・バイロンのボーカルもまあまあ良かったんだけど、バンドをクビにされちゃって、その後に死んぢゃった。
キーボードのケン・ヘンズレーの弾く歪んだオルガンの音が汚くて私は大嫌いだった。彼のシンセサイザーの音もポルタメントをかけすぎて非常にだらしない音になっていて、それも大嫌いだった。だから私はユーライア・ヒープには深入りしなかった。
その後、ユーライア・ヒープは何度もメンバー・チェンジを行ない、現在でもギタリストのミック・ボックスによって率いられてユーライア・ヒープは活動しているそうだが、全く興味のないバンドだ。レコードはLP6枚持っているけれど、CDでは1枚も持っていない。かつての「安息の日々」、「セブン・スターズ」、「魔法使い」、「サンライズ」などのシングル曲は良かったんだけどねぇ。
ユーライア・ヒープ
http://plc-rock.hp.infoseek.co.jp/hard-rock/heep.htm
同様に、イタリアにも、フランスにもロックはある。ブラジルにもアルゼンチンにもチリにもウルグァイにもある。日本にも韓国にもある。じゃ、東欧の共産圏(当時)の国々ではどうだったのか?・・・というのが本日の話題である。
1960年代から、1980年代末の共産主義体制崩壊に至るまで、東欧の共産圏の国々では原則としてロックは禁止されていた。聴くことも、演奏することも禁止だったのだ。国によって若干の認識が違っていたが、その禁止政策の基本は東欧では共通していた。ロックは「西側自由主義体制の退廃の象徴」とされていたのだ。反社会的な歌詞や悪魔崇拝の歌詞、暴力的な音、それに煽られて熱狂する群集の暴動まがいのオルグなどが、共産主義の体制・思想に反するもの、治安を乱すものだったからだ。ビートルズ(The Beatles)もローリング・ストーンズ(Rolling Stones)もそのほかのバンドの音が入ってくるのも国家権力が禁止していたし、ロック・バンドの結成や演奏の自由もなかった。
当時のソ連においてはほぼ全面的にロック禁止だった。ダーウィンの進化論が共産主義の思想に反するとして排除されていた(ラマルクの進化論に思想統一されていた)のと同様である。英国や北欧の放送局のラジオ番組でロックを隠れて聴いている国民も多くいた為に、ソ連では強力な妨害電波を発信して聴けなくしてた事もあった。ロックを聴くとKGBに連行されてシベリアの強制収容所に送られるにされる場合もあったらしい。ロックを聴くのは命がけのことだったのである。
東欧の共産圏の他の国、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニアなどでも基本的にはソ連と同様だった。音楽においても「鉄のカーテン」でヨーロッパは東西分断されていたのだった。
一方では、ソ連やポーランドの船員が国外から密かに持ち込んだロックのレコードが闇市で売られたりして、実は裏では多くの人々がロックを楽しんでいたという。1970年代の当時、東欧で人気の高いバンドは、キング・クリムソン(King Crimson)、ジェスロ・タル(Jethro Tull)、ユーライア・ヒープ(Uriah Heep)、そしてビートルズだったらしい。ロックのマニアは医療用レントゲン写真のフィルムに溝を彫ったソノシートを自主制作し、密かにソノシート観賞会を開催していた。当局が踏み込んで来ても、レントゲン写真だと言い逃れる作戦だ。
ロック禁止の体制下で、ただひとつ、表向きの抜け道があった。それは、「ダンス音楽としての軽音楽」は認められていたって事だ。だから、国内でダンス音楽の名目でのレコードは出ていたし、ダンス音楽のコンサートもあった。そんなコンサートには秘密警察のエージェントが来ていて、厳しい監視をしているのである。ちょっとでもロックっぽいフレーズを演奏すると逮捕なのだ。
最もロック禁止に厳しかったのはチェコ・スロバキアだ。1970年代に秘密裏に活動していたロック・バンド、プラスチック・ピープル(The Plastic People of the Universe)のテープが英国に渡り、その後にそれがレコードとなって発売されるに至るが、そのバンドのメンバーは逮捕され、投獄されてしまった。
ポーランドでは比較的、規制は甘かった。キーボードを弾きながら歌うニーメン(Niemen)はポーランドにおける国民的歌手で、ポーランドの音楽界のゴッドファーザーである。日本でいえば北島三郎だ。彼の音楽はポーランドの土俗の音楽をベースにその音楽性を拡張していったパターンだった。西側のプログレ・バンドが使っていた電気楽器を彼は導入し、シンセサイザーやメロトロンを弾きながら歌うに至る。それがかなりロックに近い。ニーメンのバック・バンドから独立してデビューしたSBBというバンドは完全にプログレッシヴ・ロックであり、その音楽性の高さには世界のプログレ・マニアが驚愕した。
ポーランドのニーメンの曲はこれを見よう。
http://www.youtube.com/watch?v=H1bdMhrvh20
これがポーランド人の心にしみる歌なのだ。曲名は「Dziwny jest ten swiat」。最初の単語は何って発音するのだろうか?
その後、ゴルバチョフ政権となったソ連では、ペレストロイカ、グラスノスチの解放・改革の政策によって、ロックが解禁となり、それまでアンダーグラウンドで活動していたバンドが一気に表で活動し始める。マシーナ・ブレメニ、スタス・ナミン、アルセナル、ゾディアック、ゴーリキ・パーク、・・・など、多くのバンドが表に出現する。また、西側のミュージシャンの多くがモスクワでライブを行なうようになるのだった。そして、ベルリンの壁の崩壊を経て冷戦が終結。東側諸国が共産主義を捨てると同時に、ロックも解禁されるのだった。
ロック禁止時代の東欧の国々の中で、最も規制が甘かったのはハンガリーだった。数々のロック・バンドが出ている。共産主義体制においては、労働者は全員が国家公務員であるから、プロのロック・ミュージシャンも国家公務員に該当する。だから、国家による統制下で活動しなければならなく、それなりの規制があるものだ。ところが、ハンガリー政府はロックを国営産業化し、国内での貴重な収入源とし、更には海外進出させて外貨獲得の手段とするようになる。
1970年代から活動しているオメガ(Omega)というバンドはハンガリーの国民的なバンドである。ハンガリーのダントツのナンバー・ワンのロック・バンドで、プログレ・ハードな曲っていうか、歌謡曲ロックとでも言いたくなる曲をやっている。ハンガリーではオメガのレコードが売れまくり、国内ツアーも常に満員御礼、まさにハンガリーの国家が運営するロック産業だった。西ドイツでライブを行なうなどして、西側に進出していた数少ない共産圏バンドのひとつである。オメガは今でも現役で活動している。
ハンガリーではその他には、ハード・ロックのスコルピオ(Skorpio)、ロコモーティヴGT(Locomotiv GT)、プログレのイースト(East)なども出ている。日本では1980年の「ドン・キホーテ」の一発屋として知られるニュートン・ファミリー(Neoton Familia)もハンガリーのバンドである。
で、今回のそっくりさんは、ハンガリーのオメガである。
前述のように、共産圏ではロックに関する情報も少ないし、機材の面でもハンディがあるから、レベル的に低いバンドが多すぎるのが現実だ。ほとんどが論外な三流バンドである。西欧ロックの低レベルなモノマネの域を出ていないものが多い。しかし、中には例外もあり、堂々と西側でも通用するバンドがいくつかある。東ドイツのシュテルン・コンボ・マイセン、ロシアのエデュアルド・アルテミエフ、そして、前述のポーランドのSBB、ハンガリーのイーストだ。彼らの音楽性は充分に高い。
ハンガリーのオメガもなかなかのものである。ただ、このバンドの曲には個性があまりないのだ。どこかで聴いたことのあるフレーズが堂々と登場している。それは西側のロックのパクリなのだ。日本の歌謡曲が米国のヒット曲をパクっているような感覚である。韓国では日本のヒット曲の数々をパクってるしなぁ。
私が初めてオメガの曲を聴いたのは高校生の頃で、モロにキング・クリムゾンやユーライア・ヒープのパクリのような曲があるので驚いた。キング・クリムゾンとかユーライア・ヒープって共産圏で人気があるから、このように影響を与えているんだなぁ・・・と私はすっごく興味を持っちゃったのだった。それがキッカケとなり、それ以降、私は共産圏のレコードを収集するようになった。結果的には9割以上がクズだったけど。
では、オメガの代表曲のこれを聴いてみよう。ハンガリー語のタイトルは忘れてしまった。英語のタイトルは「Help To Find Me」である。
http://www.youtube.com/watch?v=C1fnYNnjY4s
この曲のノリ、ある曲にそっくりである。
その曲とは、これだ。
http://www.youtube.com/watch?v=hbebNYF7uIk
ユーライア・ヒープのヒット曲「安息の日々 (Easy Livin’)」だ。画質が悪いな。
ハンガリーのオメガ、恐るべし!
オメガ
http://www.omega.hu/
ソ連のロックの状況については「ゴルバチョフはロックがお好き?」という本がとても参考になるのでおすすめ。本屋では見かけないので、もう絶版になっているのだろう。札幌の中央図書館に置いてあるのを私は読んだ。
「ゴルバチョフはロックがお好き?」(アルテーミー・トロイツキー 著、菅野彰子 訳)
http://www.excite.co.jp/book/product/ASIN_4794950802/
ロシアおよび旧ソ連の各国のレコード、CDは、日本では東京の神田の古書センターの4階にある「新世界レコード」という店が輸入しており、その店舗で代表的なものを買うことができる。私もこの店には時々行く。エデュアルド・アルテミエフの作品を見かけたら絶対に買いである。
新世界レコード
http://www.shinsekai-trading.com/
日本でも電波が良く入ってくる短波放送の「モスクワ放送」というラジオ局がある。その放送局の名の通り、モスクワから放送しているのである。その局がかつて、ソ連(当時)の最新のヒット・チャートを放送していたことがあって、それを毎週、私は興味深く聴いていた。マシーナ・ブレメニっていうバンドがやたらとヒットを出していたのをよく覚えている。その番組名が、「ベスト・ヒット・USA」ならぬ「ベスト・ヒット・USSR」だった。
マシーナ・ブレメニは一度だけ来日したことがあって、第2回目の「ジャパン・エイド」にロシア代表として出演していた。その模様はテレビでも放送されていた。面白いバンドなんだけど、つまらない曲しか演奏しなかったのが残念だった。マシーナ・ブレメニとは、ロシア語でタイム・マシーンの意味で、あの時はバンド名が「タイム・マシーン」と紹介されていた。ダサぃ名前だ。
ちなみに第1回目の「ジャパン・エイド」にロシア代表として出演していたのがスタス・ナミンだった。このバンドは全然面白くない。
ユーライア・ヒープはまぁまぁ好きなバンドだったなぁ。ゲイリー・セインってベース奏者の弾く個性的なフレーズが素晴らしかった。それがあのバンドの魅力だったんだけれど、死んぢゃった。
デビッド・バイロンのボーカルもまあまあ良かったんだけど、バンドをクビにされちゃって、その後に死んぢゃった。
キーボードのケン・ヘンズレーの弾く歪んだオルガンの音が汚くて私は大嫌いだった。彼のシンセサイザーの音もポルタメントをかけすぎて非常にだらしない音になっていて、それも大嫌いだった。だから私はユーライア・ヒープには深入りしなかった。
その後、ユーライア・ヒープは何度もメンバー・チェンジを行ない、現在でもギタリストのミック・ボックスによって率いられてユーライア・ヒープは活動しているそうだが、全く興味のないバンドだ。レコードはLP6枚持っているけれど、CDでは1枚も持っていない。かつての「安息の日々」、「セブン・スターズ」、「魔法使い」、「サンライズ」などのシングル曲は良かったんだけどねぇ。
ユーライア・ヒープ
http://plc-rock.hp.infoseek.co.jp/hard-rock/heep.htm